たすきちのゆるゆるブログ

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生きざま大辞典③

 

村山聖

私は、TBS系列で以前放送していた『林先生の痛快!生きざま大辞典』が大好きでした。この番組で学んだことを今更ながら、まとめてみたいと思います。

あの天才、羽生善治も恐れた天才棋士 村山聖(さとし)。難病を抱えても、自らの生きざまにこだわった壮絶人生。今、生き方に迷いがあるアナタ、「生きる」ことの本当に意味を林先生が紐解きます。たった29年間という限られた時間を必死に生き抜いた、すさまじいスピードで生き抜いた男の生きざまをご紹介。

どんな人?

  • 将棋棋士 村山聖(1969~1998)、広島出身。
  • みなさんは天才、羽生善治をご存じだろうか?そんな羽生の1つ年上で、東の羽生、西の村山と呼ばれた天才、それが村山聖
  • 三人兄姉の次男で、外で遊ぶのが大好きな活発な少年でした。しかし5歳の時、いつものように遊んだその夜、村山少年は突如、高熱にうなされました。この高熱が死ぬまで戦うことになる病の始まりだったのです。
  • 医師の診断は、腎臓の機能障害である腎ネフローゼ。未だに原因が解明されていない難病。
  • その入院生活の中で、村山少年は運命を変えるものと出会いました。それは父が暇つぶし用のゲームの一つとして買ってきた将棋。
  • 簡単なルールしか分からないまま、父とはじめての将棋を指すと、その日を境にどんどんと将棋にのめり込んでいきました。そして彼は、つらい病を背負いながら、将棋という道に光を見出していくのです。

村山聖の生きざま

そんな将棋に魅せられ、限られた時間を懸命に生きた村山聖の生きざまとは?

村山聖の生きざま

1,猛スピードで進んだ将棋の道

2,生き方を教えてくれた師匠

3,将棋以外に命を費やした時間

4,命を懸けた戦い

1,猛スピードで進んだ将棋の道

  • ネフローゼという病気に、5歳の時にかかってしまった。
  • 病床で将棋に目覚めた村山少年。もっと将棋を知りたいとお母さんに将棋の本を買ってきてくれと頼んだ。
  • ところが、この時、母は間違えて、小学一年生の村山には難しい漢字だらけの本を購入。
  • しかし、本を手にした村山は驚きのことばで対応した。

大体のことは前後を読み返せばわかるんじゃ 

村山少年

林先生のことば

すごく大事なことだと思うんですよ。大人って、かみ砕いて分かりやすいものを与えようとする傾向が強すぎます。分からないものを自分で考えさせればいいんですよ。たしかに漢字は読めないんですよ。だからこそこの漢字は何だろうかって調べるわけですし、また前後の文脈でこうじゃないかなって、わかるものを読むよりよっぽど頭を使う。分からないものを与えた方がいいです。

  • そんな入院生活の中で人生を変えるきっかけとなったある出来事が起きる。それは、入院中の子どもたちの死に直面したこと。
  • さらに急ぎ足で将棋の道に歩む。ここにいても強くなれないと、県内の強豪が集まる教室に通う(小学校6年生の時)。
  • そんなある日、村山少年の運命をつき動かすある事件が将棋界に起きる。
  • 弱冠、21歳で名人になった天才棋士谷川浩司谷川浩司は何と、異例の中学2年生でプロ棋士になった。谷川は天才が集う将棋界の頂点、10名しか在籍できないA級に昇り詰めると、史上最年少21歳で最高峰タイトルの名人位を獲得し、将棋界の新時代を切り開いた。
  • 豊富な経験が必要な将棋界を一変、一気に若手の時代にしてしまった。そして、そんな谷川の活躍がその後の村山を大きく動かす。
  • このニュースを聞いて自分も頑張れば若くして名人になれるんじゃないかと希望を持ち、谷川を倒して名人になることを目標に村山少年は頑張るようになった。
  • そして、13歳では考えられない重大な決心をした。広島から大阪に行って奨励会に入り、プロになる。
  • ところが、父親は村山少年の体のことを考えて大反対する。村山少年を説得するために親族会議を開いて一族で彼を説得しようとした。ところが村山少年の一言で会議の流れが大きく変わってしまう。「谷川を倒すためには、今行くしかないんじゃ」。

林先生のことば

「志(こころざし)は気の師(すい)なり」 、私はこのことばが頭に浮かびました。13歳の少年が、「今行かなかったらダメなんだ」と、その志、グゥーっと気が集まってきて、そういう人間が何かができる。まだ13歳だから、まだ中1だから、違います。まだ13歳だけど、まだ中1だけど、「志は気の師なり」です。

志は気の師なり(こころざしはきのすいなり)

意思は気力の統率者である。心が具体的な働きとしてある方向に発動すれば、その人の体中にあふれる気力が活動することになる。だから、その志を堅持して、その気力をそこない乱さないようにしなければならない、という孟子の言葉。

奨励会

プロ棋士を目指す者が所属する研修機関。正式名を「新進棋士奨励会」という。三段から6級までで構成されており、二段までは東西にわかれて行い、規定の成績を上げると昇級・昇段となる。三段になると東西をあわせてのリーグ戦を半年単位で行い、上位二名が四段に昇段し、正式に棋士となる。

2,生き方を教えてくれた師匠

  • いよいよ大阪行きが認められ、本格的にプロを目指すことになった。
  • プロになるために大阪に行くことになった村山少年。その時、知人の紹介で出会ったのが、その後の村山の人生においてかけがえのない存在となる師匠、森信雄四段(当時)でした。
  • 競輪とマージャンをこよなく愛し、見るからにさえない風貌で、「さえんな・・・」が口癖の自由人。
  • 森は、村山少年と出会い将棋のテストにかけず、一目見ただけで弟子にしたのです。その理由は、「重い病気にかかっているのに、卑屈さがなく、強い意志を感じる目をしていたから」。
  • 森にとって初めての弟子だった村山。古ぼけたアパートでの2人の不思議な同居生活が始まった。
  • 師匠、森信雄(当時30歳)、この師匠と村山少年の関係は実にユニークでした。髪と髭は伸び放題で、風呂嫌い。そういうところが結構よかったみたいで、村山少年もお風呂に入らなくても平気なタイプ。
  • この共同生活の中で、2人はどんどん絆を深めていった。自分のことは無頓着だった師匠。けれども、村山少年にはちゃんとやっていた。 例えば、髪が汚いと師匠が洗髪をしてあげた。他にも、師匠が村山少年のパンツを洗う、自転車の乗り方を教えてあげた。男2人の同居生活。師弟はいつしか親子のような関係へ。
  • そして村山少年は17歳になり、いよいよプロの世界に飛び込む。1987年、17歳で四段に上がり、奨励会を卒業。ついにプロへと昇格した。
  • 奨励会入会からプロ入りまで2年11ヶ月は、異例のスピードでした。その1ヶ月後には、ライバル心を燃やしていたあの谷川浩司と対決。ハンデはあったものの見事勝利。
  • 病んだ体に残るエネルギーを全てつぎ込み、東の羽生、西の村山と、天才羽生に並び称されるほどの実力で将棋界にその名を轟かせたのです。

そしてこの活躍の原動力こそ強烈な村山の将棋に対するある思いだったのです。

林先生のことば

本当に早いんです。2年11ヶ月なんですけれど、その途中も病気で中断している。勝ちまくってあっという間にプロになった。その頃、口癖のようにおっしゃっていたことがある。『早く名人になって将棋をやめたい』。それは、やっぱり体調ですよ。命を削るように指しているわけですから。対局後に高熱を出すこともたびたびあり、体力を温存させるためにペットボトルを枕元においてトイレさえ行かず、そのトイレに行くのがつらいんです。だから枕元においてそこで用を足す。しかも負けると熱が出たと。精神的なものも大きい、自分の命を削りながらやっている思いですから、そりゃ、その世界から抜けたいと、名人になって目標を達成すればもう辞められると。よく命がけってことばを使いますけど、彼を見ていると、我々に使う資格があるのかなと考えさせられますね。

3,将棋以外に命を費やした時間

  • わずか29年でこの世をさったが、将棋だけをしていたわけではない。人間どこかで生活に潤いを求めるもので、将棋以外に頑張っていたことがある。
  • 友達との飲み会や徹夜のマージャン。本当は体に良くないので、あまり飲んではいけないが、酔いつぶれるまで飲んで、急性アルコール中毒で運ばれたこともあった。
  • なんでこんなことに打ち込んだのか。それにも理由があって、『普通の青年が当たり前のようにすることや体験することをやってみたい』と。重いことばだなと思う。『普通』や『当たり前』ということは、普通だったり、当たり前の人はこのことを意識しない。だから、意識しないでいられることが幸せ。
  • やはり、小さな頃から周りの子どもたちが死んでいくのを見て、体調が悪くなったら歩くことさえできない、そういう中で体調がいい時にせめて、できるだけ人と同じことがしたいという思い。
  • 生き急いだ感はある。ここでもっと摂生していれば、もしかしたらもう少し命が長かった、でもそういう風に引き延ばした命に意味があるのか。
  • そこは第三者には分からない、それは恋愛も同じ。
親友(プロ棋士先崎学さん)にだけ密にこぼした村山の恋愛に対する思い

2人の会話

村山

「自分には夢が二つある。一つは名人になって将棋を辞め、のんびり生活すること。もう一つは素敵な恋をして結婚することだ」

先崎

「大丈夫だよ。君をいいという人が必ず見つかるさ。」

村山(声を震わせなが):

「駄目だ、こんな体じゃ。死ぬまでに女を抱いてみたい。」

林先生のことば

これは村山さんが亡くなった時に先崎さんが弔文で書いたものです。
普通だと『死ぬまでに女を抱いてみたい』ってことを亡くなった方が言っていたと弔文には書かないですよね。でもあえて書いた。本当に彼のことを理解していたからこそ。先崎さんは、村山さんが急性アルコール中毒で倒れて、2回病院へ送っている。病院で点滴をしている彼の横で彼の持っていた推理小説を読みながら待った。村山さんを本当に理解していた人だからこそ、弔文という形で、こういうものを書かれた。自分の死をどっかで意識している。だからこそ普通の暮らしをしたい。そして、自分の生きた証を何らかの形で残したい。ごく普通のことを、声を震わせ願う。そういう切迫した生き方。しかし、そういうものはなかなか叶いそうもないと、その中でとにかく鬼神のごとく将棋に打ち込んでいく生き方をされた。

4,命をかけた戦い

  • 病気と闘いながら名人を目指していた。そんなある日、新たな病気が見つかった。進行性の膀胱がんであった。
  • 村山は「子供を作れなくなるのが嫌だから」と手術を一旦拒否したが、周囲の人間が説得し、手術を受けることを決断させた。
  • ほぼ機能停止していた片方の腎臓と膀胱を摘出するため8時間半に及ぶ大手術を受けた(1997年6月16日)。
  • ところが、その1か月後(1997年7月14日)には復帰して対局をしている。文字通り、命をかけた戦い。
  • そして、その翌年の2月、病と闘いながらも、名人戦への挑戦が与えられるA級に奇跡的に復帰。
  • 拒み続けた膀胱がん摘出の大手術を受け入れ、驚くべき精神力で何と、1か月後には復帰。名人戦への挑戦権が与えられる在籍わずか10名のA級に病み上がりの中、再び昇りつめた。
  • こうして命を懸けて求め続けた名人の座がいよいよ近づいてきた。そして、名人戦を目指そうとした矢先に膀胱がん再発。どこまで運命は彼をいじめるのだろうか?
  • 結局、1年間休戦し、治療に専念すると発表し、再入院する。しかし、その年の8月に病院で息を引きとられた。

村山聖 1998年8月8日 死去

直接かかわった方たちの追悼文

羽生善治

「彼は本物の将棋指しだった」

谷川浩司

「身体さえ万全なら何回もタイトルを取っていたに違いない」

先崎学

「強く、切なく、そして優しく悲しい男だった」

林先生のことば

「病がないのならもっとやらなきゃいけないですよ、我々は。どっかでたるんでいる。どっかで明日でいいや。ついつい色んなことを先送りにしている自分を思い出して、何か自分に切迫感を持たせるために、もう少しエンジンをかけなきゃいけないなと、彼を見て・・・、だって明日病気にならないって、誰にだって保障ないのですから、その時あれをやっておけば良かったって、思ったって遅いわけですから。普通に暮らせる健康な身体をもらっているなら、やっぱりやるべきです。」

まとめ

今回の名言

大体のことは前後を読み返せばわかるんじゃ 

村山少年

志は気の師なり

孟子

 

改めてですが、充実した人生を送るためには高い志を持ち、具体的な目標を立てることは大切ですね。そして人生は有限ですね。限られた時間を有意義に過ごすために、がんばることも、楽しむことも精一杯やるべきですね。

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